感動を与える

以前、
論理的な文章を書くコツは、論理的に書こうとせずに
論理的に読めるように書くことなんじゃないか
というようなことを書いたのですが、
「感動」についても、同じようなことが言えるんじゃないかと。
人を感動させるような物が作りたい時、
「人を感動させる」とか「人に感動をお届けする」という姿勢ではなく
「人が感動できる場をお届けする」という姿勢のほうが
うまくいくのではないかと。


ところで、私は「泣かせよう」とするTV番組等が非常に嫌いですが
そんなTV番組を見ながら、私は次のようないやらしいことを考えていました。


人を簡単に泣かせるには「スイッチ」が必要だ。
「ここで泣いていいんだよ」「ここが最大の泣き所だよ」というメッセージが。
お笑い番組で、録音の笑い声やスタッフの笑い声が入るやつと同じだ。
わかりやすい「頂点」を明示してあげないと、なかなか泣かせられない。


感動系の番組ではBGMが巧みに使われる。
巧みにって言うが、
私はこの「音楽で盛り上げて感動させる」手法が嫌いだ。
音楽が盛り上がって「さあ感動のクライマックスです」と言わんばかりに
迫ってくると、それにともなって、私の気持ちはさめてしまう。
「のせられる」のが嫌なのだ。
しかし、音楽でさめてしまうというのは
単純にそのときの私の「没入度」が低いというだけのことで
演出が嫌いなわけではないのかもしれない。
状況と音楽が見事に調和した(と私が感じた)ときは、
私もすすんで「のせられ」て、構わない。


それは、ともかく。
笑わせるつもりがないのに、笑わせてしまうことがあるように
感動させるつもりがなくても、感動してくれることがある。
というのがヒントになるんじゃないかと。
感動させようと頑張り過ぎると、
かえって、さめさせてしまうこともあるだろう。
よし。何とかまとまった。